曜変天目(ようへんてんもく)は天目茶碗の一種です。曜変というのは、内部の漆黒の釉面に結晶による大小さまざまの斑紋が群をなして一面に現れ、その周りが瑠璃色の美しい光彩を放っているものを指して呼んでいます。この斑紋が妖しく青く光り輝いて、見るものを魅了します。
私も世田谷の静嘉堂文庫美術館で、目にし、それ以後すっかりこの青い光の虜になった一人です。有史多くの人達もまたこの曜変天目に魅了されてきたのでしょう。(多少ですが茶の湯をたしなむ者にとしてはこれで一服頂けたらどんなに幸せなことでしょう。)
元々、中国で焼かれたものがわが国へもたらされたそうです。ところが現在、中国はもとより世界中どの国でもこの曜変天目茶碗は存在が確認されていません。僅かに数点(3,4点)が日本に存在するのみなのです。(その内3点は国宝)
絵画からはちょっとだけ離れ、このページでは曜変天目を中心に「天目茶碗」について少し見ていこうと思います。尚、このページを作成するにあたり、陶芸家の鶴我淳二朗氏のご協力を頂きました。有難うございました。http://www.jun-kama.net/ 「淳窯ギャラリー天目の世界」
黒いうわぐすりのかかったやきものを広く一般に我国では天目と呼んでいます。
紀元前1100〜770年の遺跡から黒飴色のうわぐすりのかかったやきものが発見されています。東洋で最も古いうわぐすりとされ幽玄な東洋独特のやきもので天目の名品は我国に多く国宝の曜変天目茶碗(銘.稲葉)静嘉堂文庫美術館を初め京都国立博物館、大阪市立東洋陶磁美術館、龍光院、徳川美術館、永青文庫、根津美術館、MOA美術館、五島美術館、等が宋〜元時代の数々を所蔵し天目の宝庫として世界陶磁史に誇る重要な位置付けをしています。
海外ではイギリスの大英博物館やミシガン大学の東洋美術史研究室やオックスフォ-ド大学ワシントンのフリ-ア美術館を代表に世界各国の美術館特にカナダのトロント美術館・ニューヨークのメトロポリタン美術館・クリーベランド美術館・ボストン美術館などに所蔵されています。我国に天目茶碗が持ち込まれたのははっきりしたことはわからないが鎌倉時代前期とされています。広永年間に書かれた6書の茶会記に黒いやきものを天目とよぶようになり、江戸時代になると茶碗もしくは、やきものの代名詞として天目という言葉が使われるようになったとあります。
種類も多く産地、時代、釉調、文様、釉色等で分類されています。二千年の天目の歴史を通じて最も優れたものが作られた南宋時代(日本では鎌倉時代)に神品といわれる天目茶碗があります。曜変天目を筆頭にその文様によって、油滴天目、木の葉天目、禾目天目、玳皮天目、梅花天目、文字天目などと呼ばれています。国宝、重要文化財のいずれも世界にたぐいのない名品ばかりです。
日本でも鎌倉期以降、瀬戸や美濃を中心に瀬戸天目、菊花天目なども焼かれています。
天目という言葉の語源はいくつかの説がありますが、鎌倉時代に中国に渡った禅僧たちが天目山から持ち帰ったことから天目の語源とされています。この地方は古来茶の名産地として知られたところで、抹茶の流行した宋代には、抹茶用の茶碗として新たに生まれた建窯 で作られたものが従来の青磁に代わって使われるようになり、天目山の禅僧達の間でも盛んに使われていたようです。この天目山には有名な禅宗の寺々があり、鎌倉時代には日本か らこの地に留学する僧も少なくあ りませんでした。この留学僧達が帰国の際に建窯の茶碗を持ち帰り、やがてこれを天目山にちなんで日本では天目と呼ぶようになっ たと言われています。天目とか天目茶碗という名称は日本でつけたもので、広く欧米でもつかわれていま す。
天目の名は初めは建窯の茶碗、すなわち建盞(けんさん)だけに限られていましたが、のちには玳玻盞(たいひさん)はじめ他窯の茶碗にも使われるようになり、ほとんど茶碗の別称のようになりました
中国の建窯でできた茶碗を建盞(けんさん)といいますが、天目を代表するもので、 一番有名です。建窯というのは福建省にあり、もと建甌県、ついで建陽県に属していたので、建窯と呼んでいます。
日本の鎌倉時代に当たる南宋から元代にかけてが最も盛んに焼かれた時代で、製品は天目(茶碗)が大部分を占めていたようです。唐代に盛んだった団茶がすたれ、宋代になると新たに抹茶が流行するようになりましたが、このため
に従来の青磁茶碗に代わって抹茶 向きに工夫された天目が建窯で生 まれ、世の需要に応じて大量に生産されるようになりました。
建盞はまずその形に特色があ り、俗に天目形(なり)と言われています。つまり口辺の段がついて、いわゆる鼈甲になっています。これは中の抹茶の保温の為です。
建盞は多く無地の黒茶碗で、これを烏盞(うさん)と言います。ところが中には窯の中の偶然の変化、つまり窯変(ようへん)で釉面に
種々の美しい自然の文様が現れることがあり、茶人はこれを曜変(ようへん)・油滴(ゆてき)・禾目(のぎめ)などと呼んで特に
賞美しています。
曜変というのは、内部の漆黒の釉面に結晶による大小さまざまの斑紋が群れをなして一面にむらむらとあらわれ、そのまわりが瑠璃色の美しい光彩を放っているのものを指しています。
虹のような光彩は、ことに曜変独特の神秘な魅力をなすもので、その成因は釉上の極微の薄い膜によるものといわれています。曜変の名は茶人がつけたもので、窯変から出ているが、星のような斑紋にもちなんでいるそうです。曜変は室町時代から「建盞の内無上也、世上に無き物なり」と、その言語に絶する美しさを絶賛されていますが、その遺品はきわめてまれで、本場の中国にも欧米にも絶無で、世界中で日本だけにしかない貴重なものなのです。(静嘉堂文庫美術館、大阪藤田美術館、京都大徳寺竜光院)
油滴も曜変に次いで古来貴ばれているもので、これは内外の黒い釉面に銀白色の結晶が大小さまざまの斑点になって一面に出ているのが特徴です。油滴の名も曜変と同じようにわが国の茶人がつけたもので、その状があたかも水面に油の滴を点々と垂らしたようなので呼ばれたそうですが、中国では滴珠といっています。
油滴はまた星のようなので、一に星天目とも呼んでいます。油滴天目も遺品は少ないのですが、曜変天目に比べるといくらか多いし、日本以外にも絶無ではありません。
禾目天目というのも建盞の一種です。茶褐色の細い兎の毛並みのような線状紋が黒釉地に発色した天目です。
中国では、紺黒の地に柿色の細い線条が、口辺から内外にかけて禾目の釉文を兎の毛に見立てて、兎毫盞(とごうさん)と呼んでいます。
侘びの茶が流行するようになってから愛好されたものに、灰被天目があります。灰がかかったようなくすんだ渋い味わいが、かえって侘びの好みにかなったからです。
しかし灰被天目の多くは建盞とは違った手のもので、素地は灰白色で、黄土を塗った上に鉄釉がかかっていて、口造りは鈍くなって、高台は大きく、形は建盞と比べるとくずれています。
天目の中で建盞と並んで室町時代から賞美されているものに玳玻盞があります。この名は釉調が鼈甲に似ているので付いたものです。一名鼈盞(べっさん)とも言われています。中国江西省吉安県の永和鎮の吉州窯で南宋から元の時代にかけて盛んに量産されたもので、吉安天目または吉州天目ともいわれています。
玳玻盞の特色であります鼈甲釉は、黒飴釉をかけた上に、ワラ白釉(失透性のワラ灰釉)を斑にふりかけたもので、さながら鼈甲のような釉調をして大変美しいものです。また両釉の二重がけで種々の文様をこの地方で行われた剪紙細工
(きりがみざいく)−紙を種々の 文様の型に切り抜いた切り紙−を 陶器の文様装飾に応用したもので
す。この切り紙には、梅花・唐 花・鸞(らん・尾長鳥)・竜・吉 祥文字(富貴長命・金玉満堂・福
寿康寧等)などがあります。次の「木の葉天目」もこれの一種です。↓
建窯で作られた天目茶碗とは違い、吉州窯の天目茶碗は胎土が白く、土が緻密であるため、薄作りで、碗形も直線的にひろがっています。高台が小さいのも特徴の一つです。吉州窯では黄褐釉と黒釉の二重がけで、べっこうに似た釉調のものを作っていますが、この木葉天目も、その手法を応用したものであろうと言われています。しかし、実際の木の葉を使用して、その葉脈まで残して焼きあげる技法については、まだ定説を見ていません。
画像はこちら(大阪市立東洋陶磁美術館にて撮影)

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ここでは、曜変天目や油滴天目などを紹介されている個人のページを紹介しています。
快く、ご協力していただき、有難う御座いました。
藤田美術館 @関連ページはこちら
(所在地)大阪市都島区網島町10-32
TEL06-1351-0582
藤田美術館は、藤田伝三郎とその嗣子藤田平太郎が二代にわたって蒐集した美術品を主とし、さらに藤田徳次郎の遺品の寄贈をあわせて、昭和26年3月に財団法人として創立、同29年5月に開館された。
藤田伝三郎は長州萩の出身で、号を香雪斎といい、早くから大阪に出て明治の豪商として経済界で活躍した。嗣子平太郎は明治末に伝三郎の没後その事業を継ぎ、旧藤田組を主宰して鉱山、干拓、林業の開発経営にあたり、また初代大阪工業会会長、貴族院議員をつとめた。
収蔵品は、曜変天目茶碗のほか、紫式部日記絵詞、深窓秘抄(書蹟)、玄装三蔵絵巻、大般若経など国宝が9点、重要文化財が45点、重要美術品2点がある。ほかに絵画約700点、書蹟約350点、彫刻約150点、工芸品(陶磁・漆工・染織・銅器など)約2850点があり、全部で約5000点の収蔵品をかぞえる。とくに、茶器に関する名品が数多い。また光雪庵、時雨亭の二つの茶室が一般に公開されている。
静嘉堂文庫
(所在地)東京都世田谷区岡本2-23-1
TEL03-700-2250
静嘉堂文庫は、三菱第二代・四代の社長である岩崎弥之助・小弥太父子が明治25年(1892)ごろから蒐集した、古典籍と日本・中国の古美術品を収蔵する。明治時代の、西欧文化を偏重して東洋文化を軽視しがちであった世風に抗し、またその散逸を恐れる思いが、当文庫となって結実した。
文庫が現在地に括かれたのは、大正13年(1924)、小弥太が父の十七回忌にあたり、英人技師コンドルの設計による父の納骨堂の側に、蒲酒な西洋館を建築して図書を収蔵したのにはじまる。昭和15年(1940)、小弥太はその土地、建物、図書などをもとに財団法人静嘉堂を設立した。
美術品は、戦後、小弥太の逝去ののち、その遺族によって財団に寄贈され、かくて静嘉堂は、弥之助・小弥太二代にわたる蒐集品の図書・美術品のすべてを収めるにいたった。
収蔵品に国宝『倭漢朗詠抄』(巻下残巻)、「源氏物語関屋図・澪標図屏風」(宗達筆)、「風雨山水図」(伝馬遠筆)や重文「油滴天目茶碗」など、およそ6000点の日本・中国の古美術品のほか、およそ20万冊の古典書籍類がある。
大徳寺龍光院
(所在地)京都市北区紫野大徳寺町
大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、20万uの境内をもつ巨刹である。
大燈国師が元応元年(1319)に創建し、以後朝廷の祈願所として繁栄した。一時は五山の上位にも列したが、応仁の乱の戦火などで寺運は衰退した。その後、室町時代に堺の豪商の協力を得た禅僧一休宗純が入山して再興をはかる。やがて天正10年(1582)には豊臣秀吉が織田信長の盛大な葬儀をおこなうなど擁護をはかり、諸大名も盛んに当寺に帰依して塔頭を建立した。
現在22をかぞえる塔頭のうち、拝観できるのは龍源院、大仙院、高桐院、瑞峯院で、他は期日を定めて公開するか、非公開である。本坊は非公開。
伽藍は松・杉の古木がおい茂るなかに、三門・仏殿(本堂)・法堂・方丈が南北に一直線にならぶ禅宗様式である。
龍光院は大徳寺の塔頭の一つで、慶長11年(1606)戦国の武将黒田長政が、父黒田孝高(如水)の菩提を弔うため建立した。龍光院の開祖、江月宗玩は、堺の豪商津田宗及の子である。
明治の廃仏の折に広大な敷地が縮小されたが、建物はいずれも創建当時のままといわれる。書院は国宝に指定され、北西の隅には小堀遠州の設計といわれる四畳半台目の茶室、密庵席がある。
津田宋及、江月宋玩父子が当時一流の茶人であった関係で、龍光院には油滴天目茶碗(重文)ほかの茶道具が数多く残されている。
世界の陶芸史上、最大の謎とされてきた.「曜変天目茶碗」を復元する試みが相次いでいる。折しも、日本にのみ現存する三点のうち一点(国宝)が東京・世田谷の静嘉堂文庫美術館で公開中。七、八百年前の中国で生まれ、その後だれも焼くことができない茶碗の秘密に挑む陶工たちを追った。
十月一日から一週間、東京・日本橋三越で開かれた岐阜県土岐市の陶芸家、林恭助(39)の「曜変天目特集」展が陶芸界に静かな衝撃を与えている。出品された十点の作品が静嘉堂の国宝と比較して「よくここまでやれたと思う」(陶磁史家、弓場紀知)と高く評価されたためだ。
静嘉堂の曜変天目は、つややかな漆黒の肌に、満天の星月夜のような星紋がいっぱいに広がり、その星紋をからめとるように青白い光彩が七色に明滅する。林の作品も、星紋とその周りのきらめきがしっかりと表現されている。星紋の出方などについてはさらなる探究を待ちたいが、復元に取り組む陶芸家たちの中から、一歩抜け出した感がある。
林は1989年に陶芸家として独立。当初は黄瀬戸を中心に作陶し東海伝統工芸展で最高賞をとるなど活躍してきたが、「四年ほど前から、だれもが焼成に成功していない点に引かれ、曜変を手がけるようになった。」全くの手探りで、陶土や釉薬(ゆうやく)の成分データを集め、造っては壊す試行錯誤を繰り返した。初公開に踏み切ったのは「曜変の技法を応用した独自の作品が出品できたから」という。
最も大きなポイントは、原料の陶土を直接、曜変天目の原産地とされる中国の建陽市から輸入できたこと。これまでの
陶芸家はほとんどの揚合、輸入上の手続きが壁となり、日本の土を混合して用いてきた。現地の陶土については、父子二代にわたって曜変に挑んできた長江惣吉(39)も、このほど建陽市から輸入に成功。11回にわたって建窯窯跡の調査も行ってきた長江は、中国科学院上海硅酸(げいさん)塩研究所などが発表する天目の陶片の「化学組成分析」のデータなどを丹念に調べて材料を集め、テストを繰り返してきた。
「これからは本揚の土を使って一からやり直したい。曜変への挑戦は父の衣鉢を継いでのことで、マスターした曜変の技法を駆使して現代の作家としての作品をつくるのが目標」と意気込む。
神奈川県中井町で作陶一を続ける瀬戸毅已(43)も、徒手空拳から曜変挑戦を続けて約12年。「だれもその焼成の秘密を解決していない、いわば陶芸界における"フェルマーの問題"だからやりがいがある」と語る。瀬戸は現地の土を使っていないが、独自の土作り、釉薬の工夫などの末、未発表ながら、ようやく黒の釉肌に青いきらめきの星紋を出すことに成功した。
不可能と思われてきた曜変天目焼成への足がかりとなったのは、1953年発表の共同論文「曜目の研究」だ。陶芸家で陶磁学者でもあった小山冨士夫と、無機化学専門の山崎一雄(名古大学名誉教授、91)の両氏がまとめたもので、科学的に曜変焼成の謎に挑んだ最初の貴重な成果である。星のように点在る光彩が、青紫色にきらめく理由は「紬上の薄膜によって生じた光の干渉」(山崎)で、カメラレンズに施された反射防止膜などと同じ光の作用という。
山崎は曜変焼成のメカニズムを次のように推測する。「天目の焼成の途で釉が熔融(ようゆう)した時、二層に分かれ、軽い方が適状になって重い他方の表面に浮き、そのまま冷却して斑点となり、下の重い方はガラス質のまま固化して黒色の釉になって曜変ができた」
釉薬に試剤を混ぜ人工的に光彩を出す方法はいろいろ試みられてきた。マンガンと鋼、あるいは、タングステン、モリブデンなどを入れて焼くと光彩を放つ。1972年に名古屋工業技術試験所のスタッフが発表した「マンガンラスター釉」は代表例だが、酸に弱く、.酢を塗って数日放置すると光彩は消えてしまう。本当の曜変ではない。
「曜変天目の焼成は命懸け。すべてを犠牲化しないととてもできない」と力説するのは安藤堅(75〉。五十歳を前に会杜をやめ、背水の陣で挑戦。試作成功の後、何度も個展を開いたが、14回目の91年、焼成中に心臓発作に襲われ、本格的な制作を断念した。「三日聞ぶっ通しでの窯焼きに耐えられなかった。その間、二分間窯を観察し、三十秒休むということを延々と繰り返さなければならなかった。そんなことは体が許さない」
秘密の扉を、いつ誰が開くのか。曜変研究の大御所、山崎は「挑戦の中から必ず有意義な絡果が生まれてくる」と語っている。敬称略
天目茶碗の画像

淀城主稲葉家に元々あった為、別名「稲葉天目」とも言われています。
国宝に指定されている三つの曜変天目茶碗の中でも一番曜変斑文があらわれていて、その華々しい美しさは群を抜いています。
黒釉が施された見込み全面に、うすい銀色の班文があり、その周りを青色が隈取りとしてあらわれています。この世のものとは思えない蠱惑的な魅力を持った茶碗です。
暗い室内と、明るい太陽光の下では、全く違った表情を見せます。(静嘉堂でも展示の方法を色々と考えているようです。)直径僅か12pの中に「宇宙」を感じさせる一品です。
大正7年に東京美術倶楽部でこの天目茶碗が売りに出された時についた値は実に16万8000円。現在の金額に換算すると約17億円!だったそうです。

水戸徳川家に伝来した一品。天下人のステイタスシンボルとしての役を担っていたと言われているのも頷けます。
三つある曜変天目茶碗の中でも唯一、曜変の斑文が茶碗の内だけでなく、外にもあらわれています。静嘉堂のものと比べると一見地味ですが、虹彩の奥床しさや、一部に入った筋目、虹彩のない斑文の輪郭部だけの浮かび上がりなど「稲葉天目」にはない別の魅力を持っています。
「貴婦人のような優美」さがあらわれている天目茶碗です。
藤田美術館の展示室は照度を落としてありますが、この曜変天目を観る為にと専用の懐中電灯を貸してくれます。これで照らして観ると、筋目の部分などとても趣深く見えてくるので、また不思議さが増します。
大正7年水戸徳川家道具入札会にて、藤田平太郎男爵が5万3800円で落札したそうです。曜変天目茶碗三碗のうち、偶然にも二つが同じ年に所有者を変えたことになります。
京都の大徳寺・塔頭、龍光院に伝わった一品。この曜変天目茶碗だけ未だ観ることができていない、自分にとってまさに幻の茶碗です。
他の二作に比べ素地は細かく緻密。
曜変斑文は国宝指定三碗の中では、最も地味で、油滴天目に近い感があります。しかし、所々に青白い隈取りを見て取ることができます。幽寂な趣があり「枯れ」の面では、最高の茶碗といえます。「侘び寂び」を重んじた当時ではこの茶碗が一番価値が高く評価されていたかもしれません。
「稲葉天目」が輝く崇高な美しさを持つのに対して、龍光院の天目は月夜が醸し出す幽玄な美しさを備えているといえます。
昨年(2002年)京都国立博物館の特別展でこの曜変天目茶碗が公開されました。ただし、普段は一般公開していない為、観るチャンスは稀です。
| 静嘉堂文庫美術館 | 藤田美術館 | 龍光院 | |
| 高さ | 6.8cm | 6.8cm | 6.6cm |
| 口径 | 12.0cm | 12.3cm | 12.1cm |
| 高台径 | 3.8cm | 3.8cm | 3.8cm |
| 国宝指定 | 昭和26年6月 | 昭和28年11月 | 昭和26年6月 |
| 制作時代 | 南宋時代(12〜13世紀) | ||
(参考文献)
講談社「国宝大事典」(4巻、工芸・考古)
日本放送出版協会「NHK国宝への旅」(第2巻)
新潮社「やきもの鑑定入門」
「ようへん」さんの復元曜変天目
拙掲示板でもおなじみの「ようへん」さんが見事な天目茶碗を焼き上げられました。
百聞は一見に如かず。ますはその素晴らしい力作からご覧下さい。

如何ですか?本物の曜変天目そのものですよね。
上記の日経の記事からも分かる通り、この茶碗の復元はまさに命がけの作業と
桁外れの根気を要します。とても私どには出来ないことです。
さて、詳しい内容は、
「ようへん」さん談
『釉薬の調合には10種類ぐらいの材料を使います。
その中に含まれる元素Fe,Al,Co,Mn,Ti,K,Na,Ca,Mg,Si
C,O等です。
曜変天目の美しい発色の得るためには、どの材料をどれだけ使うのかが一番大事な事
なんです。0.1%の
違いで全く発色しないことがあります。
今までに、試した調合の数は、およそ5000種類ですが、
まだ完全な調合は未知の領域にあります(^^;
少しの釉薬を10種類くらい調合して焼きます。
釜は、一度に2000個くらい焼くことが出来るのですが
場所によって焼きむらができるため、200個に留めています。』
とても簡単そうに書かれていますが、よく読むと・・・試した調合約5000(゜o゜)
多分控えめなようへんさんの事ですから、もっともっとご苦労はあったはずです。
※撮影条件--- 夕方の間接自然光(2枚とも)

全ての斑紋が中央右のように白と青で縁取られます。

撮影箇所は上のものと殆ど同じです。 緑の成分もありそうです。
最も肉眼で見るのと同じイメージの写真です。
曜変天目関連の本
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碗の中の宇宙 ―曜変天目茶碗.の研究と成果. 安藤 堅・著 |
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天目 中国の陶磁 西田 宏子 (著), 佐藤 サアラ (著), 長谷部 楽爾 |
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油滴天目 ―その世界と技法 雫 浄光 (著) |
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国宝の旅 ― 日本の美 日本のこころ |
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象と耳鳴り 恩田 陸 (著) 曜変天目の夜 (文庫版もあります。) |
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建窯瓷―鑑賞と鑑定 中国名窯名瓷シリーズ (1) 葉 文程 (著), 林 忠幹 (著), 富田 哲雄 |
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茶碗百選 大河内 風船子 (著) |
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母さん 子守歌うたって―寸越窯・いのちの記録 那須田 稔 (著), 岸川 悦子 (著) |