晩年は市川八幡に住み、船橋方面にも散策の足を運んでいます。余丁町には明治41年、フランスより帰国してから、大正7年まで住みました。広い敷地だったようで、当時の番地では余丁町75〜79番までの5番地にあたり、500坪以上という広さだったということです。
東京監獄・市ヶ谷監獄跡
永井荷風の旧居跡から少し進むと、左側に公園があります。余丁町児童公園と富久町児童遊園です。地形社から発行されている昭和16年の「牛込区」の地図を見ると、都立小石川工業高校からこのあたりにかけて、以前何やら大きな施設があったことがわかります。これ、東京監獄だそうです。
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| 都立小石川工業高等学校 |
先の三島由紀夫が13歳の時に書いた小説『酸模(すかんぽ)』(昭和13年)の中に「灰色の家」という表現で登場する刑務所がここです。 主人公の少年・秋彦は、母親から「灰色の家に近寄っては不可ません!」と言われて育ちます。
塀は灰色で、それから大きい門柱も、所々に出つ張つて、遠くからも見える棟々の屋根も、何も彼も灰色をしてゐた。恐らく門の中の広い広い庭も灰色の空気に満たされてゐたことであらう。さうで無いものと云へば、黒く冷たい鉄製の大きな門だけだつた。
秋彦はこの刑務所を脱獄した囚人と出会います。
『俺は旅行に出たんだが忘れ物をしてね、お家へ引返して来たんだよ』
『お家ってあの丘の上の?』
秋彦があまり頓狂な声を出したので男はびつくりしながら、何げなく答へた。
『あゝ』
『小父さんのお家の表札は随分大きいのね』
『さうかい』(男は苦笑する)
『ねえ!』
『え?』
『小父さんは、どうして自分のお家を灰色なんかに塗つたのよ、塀も、お屋根も、ご門の柱も』
『…………』(沈黙)
『小父さん、返事をしなきやいやよ。
―――あのね、小父さんのお家は刑務所つて云ふんでしよ』
『よく知つてるね、さうだよ。俺の家は刑務所つて云ふんだ』
この後、脱獄囚は刑務所に戻ります。脱獄囚を改心させたのは、秋彦でした。脱獄囚にとって「秋彦の目は、秋の湖」であり、「澄み切つて湖底の砂が数へられるような、清さ」でした。秋彦の目に恐ろしいまでの荘厳さを見た脱獄囚は、秋彦を「神のような男の子」と感じたのでした。
さて、富久町児童遊園ですが、この小さい公園の片隅にひっそりと慰霊碑が建っています。碑面には、「刑死者慰霊」と書かれています。これは、東京監獄で処刑された人の霊を祀った碑です。あの大逆事件の死刑執行もここで行われました。「大逆事件」(明治43年)とは、明治天皇の暗殺を計画したとして社会主義者・無政府主義者が次々と逮捕され、罪を問われた事件です。絞首刑になった12名の中には、思想家で作家の幸徳秋水(明治4〜明治44)も含まれています。この事件において、実際に天皇暗殺を企てたものは4名だけであり、残りのものはほとんど冤罪と言われています。
監獄のすぐ前に家があった永井荷風は、随筆『花火』(大正8年)の中でこの事件に触れています。
明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。私は文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレヒュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に絶えられぬような気がした。私は自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。
ところで先の昭和16年「牛込区」の地図を眺めると、現在小石川工業高校のある場所と道を一つ挟んだ向かい側に「絞首観音像」という表記があります。観音像があった台町には以前、市ヶ谷監獄がありました。ここは文字通り刑死者の慰霊を目的として建てられたものなのでしょう。調べてみると、大正2年の5月にこの観音堂を建てるための地鎮祭が行われたことがわかりました。ここでの刑死者は1300人に及んだそうです。現在でも台町坂を上った右側に小さい観音様が祀られています。もちろん当時のものではないでしょうが、流れをくむものであることはまちがいないでしょう。
この監獄には詩人・北原白秋も収監されていたことがあります。明治45年のことです。当時原宿にいた白秋は、隣家の夫人に横恋慕をして姦通罪(当時はそういうものがあったのです)で捕まり、ここにぶちこまれたのでした。28歳の時です。幸い弟の尽力により、示談になりました。大逆事件の幸徳秋水に比べて、なんとなくかっこ悪いですね。
もう一つ、明治の毒婦として有名な高橋お伝の処刑はここで行われました。明治12年。日本で最後の斬首刑でした。
坪内逍遙旧居跡・演劇研究所跡
入江相政の引用文にちょっと姿をみせた坪内逍遙(1859(安政6)〜1935(昭和10))というのは、近代日本文学をその草創期において理論で支えた人です。小説のストーリーから勧善懲悪を排除せよ、小説は写実をその中心
に据えねばならない、という主張をしました。その理念は『小説神髄』という著作の中に見ることができます。東京専門学校(後の早稲田大学)の講師でした。
後に、二葉亭四迷と知り合ってからは、小説よりも、演劇改革に力を注ぎました。多くの戯曲を書き、島村抱月らと文芸協会を設立して新劇運動に力を注ぎました。
逍遙がここ余丁町に移ったのは明治22(1889)年5月でした。この逍遙の宅地内に造られたのが、文芸協会演劇研究所です。設立は、明治42(1909)年9月です。説明板の表示によれば、
この研究所は演劇に関する基礎知識を授けるとともに、実際演劇を習わせる所で、その第一期生には松井須磨子らがいた。
大正9年に逍遙は熱海に別邸(双柿舎)を構え、この地にあった協会も解散しました。
なお、今、早稲田大学に演劇博物館という建物がありますが、それも逍遙のこれまでの功績をたたえて昭和3(1928)年に造られたものです。この年は逍遙がシェークスピア全集の全訳を終えた年でもありました。
抜弁天・厳島神社
坪内逍遙の旧居跡を通って少し行くと、広い道に出ます。この通りは通称「職安通り」と呼ばれています。
我々が通ってきた道と職安通りが合流する角に神社があります。ここは通称「抜弁天」と呼ばれ、親しまれている神社です。
なぜ、「抜弁天」と呼ばれるのかは、神社の建っている場所を見れば一目でわかるでしょう。
正式名称は厳島神社といって、縁起によれば成立は源義家の時代に遡るということですが、実際には元禄時代かそれより少し前に創建されたもののようです。この近辺は頻繁に工事が行われていて、抜弁天の周辺も少し見ない間にずいぶんと変化してしまいました。
おれは煙草をふかしながら、職安通りを抜弁天へ下りはじめた。(『不夜城』馳星周・1996・15章)
ところでこのあたりには、元禄の頃、広大な犬小屋が建てられていました。将軍綱吉が「生類憐れみの令」を出したのはみんな知っていることと思います。それに基づいて、元禄7(1694)年に、飼い主のいない犬を収容するために、この地に敷地約825アールの犬小屋を建てたのです。野犬を捜して集めましたが、その数は10万匹以上になったということです。宝永6(1709)年に綱吉が亡くなると同時に「生類憐れみの令」は廃止され、六代将軍家宣の時に犬小屋も廃止されました。
西向天神・大聖院
抜弁天の前から、職安通りと並行する小さな道に入ります。暫く行った先を右折すると、先に鳥居が見えてきます。これが天満宮・通称西向天神です。西側がちょっとした崖になっていて、以前はそこから見る眺めがよかった
ようです。前出の永井荷風『日和下駄』にも、
東都の西郊目黒に夕日ヶ岡というがあり、大久保に西向天神というがある。ともに夕日の美しきを見るがために人の知るところとなった。(第十一)
と書かれています。
天満宮ですから、祀ってある神様は菅原道真公。学問の神様です。お詣りをすればご利益があるかも。中世の創建であるようです。
境内の西隅には富士塚があります。天保13(1842)年の造立で、関東大震災後に改修再築されました。
この境内でひときわ目立つ、真新しい石造りのオブジェがあります。近寄ってよく見ると、表には歌謡曲「新宿の女」の歌詞が1番から3番まで書かれています。「? 新宿をテーマにした歌はたくさんあるのに、何でこの歌が?」と思って裏を見ると、そこにはこの碑ができた由来が書かれていました。
昭和四十四年九月二十五日『新宿の女』で、この西向天神から二人の若者が旅立って行き、石坂まさをと藤圭子の名は時代の伝説として語られるようになった。
石坂まさをというのはこの歌の作詞者、藤圭子は、今や宇多田ヒカルの母親としてのほうが有名ですが、以前は売れっ子の演歌歌手でした。
宮司さんに話を聞いてみると、作詞者の石坂まさをさんは、この西向天神の近くで育った人で、この『新宿の女』のヒットを願って藤圭子と二人、ここでお祓いを受けたのだそうです。この曲は確かに大ヒットしました。霊験あらたかなのでしょうか。
山吹坂・紅皿の碑
西向天神の横に、大聖院という寺があります。正直なところ、西向天神に比べてかなり寂れた感じを与えます。
この寺の手前に短い石段があります。寺にいく参道なのでしょうが、ちゃんと名前があります。「山吹坂」というの
です。といってもまわりに山吹が咲き乱れているわけではありません。
また、この寺の横、坂を上ったあたりに一つの碑が建っています。「紅皿の碑」と呼ばれますが、相当わかりづらい位置に建っているので、知らない人はたどりつけないでしょう。坂名の由来とこの碑の説明には、江戸城を造ったことで知られる太田道灌にまつわる有名な伝説を紹介する必要があります。(文学散歩・東京探見/小石川・早稲田の回も参照。)
太田左衛門大夫持資(道灌)は上杉宣政の長臣なり。鷹狩に出て雨に遭ひ、ある小屋に入て蓑をからんといふに、わかき女の何とも物をばいはずして、山吹の花一枝折りて出だしければ、花を求むるにあらずとて怒りて帰りしに、是を聞きし人の、それは、
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ
悲しき
といふ古歌のこころなるべし、といふ。持資おどろきてそれより歌に志をよせけり。(『常山紀談』巻之一)
この話の中では女性の名は語られませんが、この西向天神に伝わる紅皿塚の由緒書には「紅皿」という名がつけられています。『新撰東京名所図会』から引用してみます。
応仁の頃、京家の武士、細川山名の合戦のみぎり、忍びて此の国に下り豊島の郡高田村に住居す。此の人妻に後れ一人の娘をもてり。しかるに所の者、その頃同所に後家暮らしの女有りし家に世話し入夫とせしに、程なく後妻一女を生む。成人に随ひ姉は生質美しく殊に歌を好み、妹は容姿よろしからざりしかば、近辺の者、その善悪を皿に譬へて、姉を紅皿妹を欠皿とあだ名せり。母はこれを聞きて姉を憎み、父に対して種々讒言せしかば、後には父も疎みけれど、紅皿は孝心深く父母を恨みずに仕へける。
この後、姉の紅皿は太田道灌とやりとりをおこないます。
道灌、歌書に広からぬを恥じ、かの紅皿を呼んで後に妾となし、歌の友となし給ふ。
道灌の死後、紅皿は尼となって大久保の地に庵を建て、死後、その地に葬られたそうです。
道灌と「紅皿」が雨の日に出会ったのは、今の面影橋のあたりであったといわれ(別説あり)、橋のたもとに「山吹の里碑」が建っています。「山吹坂」という名は、厳密には場所ちがいで、山吹を冠するならば面影橋近辺なのでしょうが、紅皿との関わりでつけたものと思われます。
「紅皿の碑」は、紅皿の墓と伝えられているものです。説明表示に拠れば、造立は15世紀後半あたりであるそうで、太田道灌は1432年に生まれ1486年に亡くなっていますから、時代的には照合しているようです。でも紅皿の墓かどうかはわかりません。
