長命寺
 右手に見えてきたお寺は、隅田川七福神の一・弁財天を祀る長命寺です。境内には幼稚園もありますね。ここには多くの歌碑・句碑があるのが特徴で、本堂前にある
芭蕉の句碑は有名です。

 いざさらば 雪見にころぶ ところまで  芭蕉

 芭蕉がここで雪見をしたわけではありません。芭蕉を慕う人が後年(1858ころ)建てたものです。向島は雪見の名所として知られていたので、それに見あう芭蕉の句が選ばれたのでしょう。
 一風変わったものとしては、
十返舎一九の狂歌碑があります。

 内損か腎虚と我は願ふなりそは百年も生き延しうへ  一九

 一九は江戸時代の滑稽本作家で、代表作である『東海道中膝栗毛』は享和2年(1802)に発表されました。
 「内損」とは酒などで内臓を悪くすること、「腎虚」とは性行為のしすぎで体が衰弱することです。いかにもぜいたくな病ではありませんか。
 裏手にまわるとここも碑が所狭しと立ち並んでいます。明治の随筆家で色男でもあった
成島柳北の顕彰碑は、レリーフ付きですが、残念ながら鼻の先が欠けてしまっています。

 境内には先ほど鳩の街で紹介した
木の実ナナさんが植えたしだれ桜とそれを記す碑も建っています。彼女はこの境内にかつてあったバレエ教室に通っていたそうで、その縁による植樹ということです。

長命寺桜餅
 長命寺といえば桜餅が有名です。本堂裏手の小さな門から出、階段を上がるとそこは墨堤。隅田川に向かって、有名な「長命寺の桜もち」山本屋があります。堤にかぶさる高速道路のために、入り口の前が非常に暗くなっています。とても残念なことです。
 江戸は元禄のころ、下総国銚子の新六というものが、長命寺の門番をしていましたが、桜の葉を醤油樽に漬け込み、これに餅を包んで売りました。それがだんだん有名になり、ついに向島名物となったものです。
樋口一葉の日記にも記載がみられます。

 秋葉、しら髭のわたりよぎりて梅若の塚までも花を探りき。このあたりには人のかげもなきがいと嬉し。かへるさには長命寺の桜もちゐ求めて妹に渡しぬ。こは母君にまゐらせんとて也。(若葉かげ 明治24年4月11日)

 次に、ここの桜餅を詠んだ短歌を一首紹介してみます。

 花の香を若葉にこめてかぐはしき桜の餅(もちひ)家づとにせよ

 「家づと」というのはお土産のことですね。これは
正岡子規の作った歌です。正岡子規は俳句界の巨人。最もよく知られている句は、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」でしょうか。
 松山出身で、夏目漱石とは同い年。大学予備門以来の知り合いで、漱石の俳句の師匠でもありました。結核で34歳の若さで死んでしまった人ですが、青年時代は運動好き、特に野球が得意でした。ポジションはキャッチャー。打者・走者・死球などは、彼が造った訳語です。これを初めとする多くの貢献を評価され、平成14年には野球殿堂入りを果たしています。
 この正岡子規、早く死んだこともあって、恋愛関係の話題に乏しいようですが、唯一といって良いエピソードがこの桜餅屋に関係して存在します。
 明治21年、帝国大学の学生だった子規は夏休みに故郷松山に帰省せず、山本屋の2階で向島の風流を味わいつつ過ごしました。

 おのれ去年の夏牛嶋長命寺にかりやとりしぬ。  (「七草集批評」・明治22年)

 「長命寺」となっていますが、実際には山本屋のことでした。当時山本屋の建物は「月香楼」という風雅な名前で呼ばれてもいたそうです。ところが、この山本屋の娘さんと子規とがよい仲であるというようなうわさが立ったのです。これは大谷是空という子規の友人が「正岡君」という文章の中に記していることです。(『子規言行録』所収・平成5年再刊)
 この噂がどこまで本当だったかについてははっきりわかりませんが、なぜか本当であってほしいようにも思えてしまいます。
 なお、『子規全集』第20巻月報によれば、この女性は「お陸(ろく)」さんという、明治5年生まれの女性だったとのこと。大変な美人だったそうですよ。

 もう一人、紹介しましょう。
沢村貞子さんという女優さんです。平成8年に惜しくも亡くなってしまいましたが、NHK朝のテレビ小説「おていちゃん」(昭和53年)の原作者でもありました。『私の浅草』(昭和51年)というエッセイが、よく知られています。ここではその中から、筆者が17歳の娘だった早春のある日、山本屋の近くで体験した話を取り上げてみることにします。

 お母さんが桜餅を買っている間、彼女は土手に出て春のうららかな日ざしを楽しんでいました。すると、彼女に誰かが大きな声をかけてきました。ふり返ると近くに七、八人の道路工事の作業者がいて、しきりに彼女に対して、いやらしい言葉をかけてくるのでした。彼女はまだ10代の娘、足がすくんで動けなくなってしまいますが、男たちはいよいよかさにかかり、しつこくからかってきます。そのすぐ後、彼女がとった行動とは…。さあ、何だと思いますか?


弘福寺
 長命寺のすぐ隣にもお寺があります。これは隅田川七福神・布袋尊を祀る弘福寺です。禅宗(黄檗宗)の寺です。立派な山門といい、本堂の迫力といい、東京にいることをふと忘れさせるようなどっしりとした雰囲気があります。震災にあい、昭和8(1933)年の再建ですが、新しい感じは全くしません、落ちついた雰囲気が味わえます。お寺の人は「それだけ東京の空気が汚れている証拠です」と言って笑っておられましたが。いずれにせよ戦災の被害に遭わなかったのは幸いです。
 お賽銭箱の横に大きな三つ葉葵の紋所があります。徳川家に関係するものかときいてみたところ、そうではなく、宗派である黄檗衆の門なのだそうです。

 ここには、江戸時代の国学者・
建部綾足(たけべあやたり/1719〜1774)のお墓がありましたが、震災の被害によって失われてしまったそうです。今は、墓地の入口に昭和14年建立になる碑が建っているのみです。建部綾足は、読本『西山物語』の作者としても知られています。
 碑には、建部綾足作の歌「波とのみ みふねの山の 山桜」が彫り込まれています。
 建部綾足は、読本
『西山物語』『本朝水滸伝』の作者としても知られています。『西山物語』は、上田秋成の『雨月物語』と一緒に本になっているので、手に入れるのは難しくありません。江戸時代に実際に起きた猟奇的な出来事を題材にしています。その出来事は「源太騒動」と呼ばれていますが、簡単に言うと次のような内容です。

 京都の一乗寺に族を同じくする二つの渡辺家がありました。一方は栄え、あるじを団治は庄屋です。もう一方は貧しく、当主を源太と言います。この二つの渡辺家はとても仲が悪かった。ところが、団治の息子が源太の妹と男女の仲になる、ということが起こってしまうのです。源太は好きあっている二人を一緒にさせようとして、団治に交渉しますが、団治は立腹して聞き入れもしません。この後仲介に立った者の不手際もあり、悲劇的な結末を迎えます。ある夜、源太は妹を連れて団治の家に最後の談判に行きますが、団治は相手にしません。源太はするとその場で刀を抜き、一刀のもと妹を斬り殺してしまうのです。

 明和4年十二月に起きたこの事件は「源太騒動」と呼ばれ、『西山物語』以外に、
上田秋成『春雨物語』「死首の咲顔」の題材ともなっています。

 このお寺にはまた、明治の文豪・森鴎外の墓所もありました。大正11(1922)年7月9日に亡くなった鴎外は、ここに初めに埋葬されました。ところがこれも関東大震災で破壊されたため、昭和2年に三鷹の禅林寺に改葬されたのでした。なお、同年6月の29日、体調を崩した鴎外を診察し、萎縮腎および肺結核の診察を下したのは、本校の創始者である、額田晋氏です。
 森鴎外は石見国(今の島根県)の生まれですが、明治5年・10歳の時に、医師である父に連れられて上京しました。その時落ちついたのが、向島区小梅村でした。明治12年6月、父の開業の関係で千住に転居するまで、(少々小梅村の中での動きはありましたが)この付近に住んだのでした。今、その住居跡は現在本所高校が建っているところになります。(今回はコースの関係で訪れません。)
この時の状況は、歴史小説
『渋江抽斎』(大正5年)の中の語り手「わたくし」の姿を借りて描かれています。

 わたくしは幼い時向島小梅村に住んでいた。初めの家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になっている。その後の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
 わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある…


弘福寺と「咳の爺婆」
 境内入ってすぐ右手にちっちゃい祠があり、その中にはユニークな姿の男女一対の石像が安置されています。これが「咳の爺婆」といわれる石像です。これについては、日本民俗学の祖・
柳田国男が著書『日本の伝説』(昭和4年)の中で紹介していますので、引用してみましょう。

 築地二丁目の稲葉対馬守という大名の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあって、百日咳などでなんぎをする児童の親は、そっと門番にたのんで、このお屋敷のうちへその石をおがみにはいりました。もとは老女の形によく似た二尺余りの天然の石だったともいいますが、いつのころよりか、ちゃんと彫刻した石の像になって、しかも爺さんの像と二つそろっていました。婆さんの方はいくぶんか柔和で小さく、爺さんは大きくて恐ろしい顔をしていたそうですが、おかしいことには、両人はなはだ仲が悪く、一つ所におくと、きっと爺さんの方がたおされていたといって、少し引きはなしてべつべつにしてありました。
 この仲のよくない爺婆の石像は、明治時代になって、しばらくどこへ行ったか行くえ不明になっていましたが、のちに隅田川東の牛島の弘福寺へひっこしていることがわかりました。もうその時には喧嘩なぞしないようになって二人仲よくならんでいました。
(「咳のおば様」)

この二人、実は仲が良くないというのが面白いですね。昭和六年にできた
『江戸の口碑と伝説』(佐藤隆三)という本にも、この二人は時々喧嘩して、お爺さんの方が台石から落とされるということが書いてあります。よほど二人の不仲は有名だったようです。二人の仲、今は果たしてどうなのでしょう。なお、この本には、願の掛け方も載っていました。それによると、まずお婆さんの方に先に供物をあげて願い事を言い、今度はお爺さんにも供物をあげて、「今お婆さんにもお願いしたが、お爺さんにもお手伝い願いたい」旨を言うのだそうです。

 咳止めの霊験はあらたかであるようで、寺務所では「せき止め飴」も売られています。

向島花街
 お寺を出て、また歩き始めます。右手には粋な料亭が見えてきます。人力車が似合いそうな雰囲気です。このあたりが、昔世に聞こえた向島花街です。芸者さんの手配などをする「見番」もあります。かわいらしい小物を売るお店「まねき屋」もありますよ。

 芸者さんというと、多くの現代人からすると縁の薄い存在かも知れません。向島の芸者さんを描いた作品として、
小杉健治『向島物語』(平成元年)がありますが、ここでは舞台を今の向島にとった作品を紹介しましょう。領家高子『向島』(平成13年)は向島に生まれ育った作者が、現代の向島で芸者として生きる一人の若い女性の姿を描いた作品です。

 芳恵は25歳。死んだ母と同様、向島で芸者として生きる道を選びました。三味線の名手で、人気もかなりあります。そういう彼女の前に大きく浮かび上がる問題がありました。「玄人」として、つまり「後援者」を持って生きるかどうかということです。彼女の前に上野で老舗の和菓子屋を営む、6年前に妻を失った黒川という男が現れます。黒川は50半ばでビルを都内に五軒ももつやり手です。彼の差し出す手に掴まるべきかどうか…。芳恵は悩みます。

 この小説、向島の一年が、地元に住んでいる人ならではの優しい細やかな目で描かれています。実在する場所も多く登場します。そして何より、登場人物の一人一人に読む人は引きつけられます。哀しい愛、切ない愛、そして純な愛が描かれる愛の物語であるのは確かですが、人情の物語としても完成度は高いものがあります。


桜橋
 途中の四つ角で、右を見ると、道が隅田川の堤防に突き当たって終わっています。車はこれ以上先には進めませんし、何が有るとも思えない雰囲気ですが、実はこの先には、歩行者専用の橋・桜橋があるのです。
 桜橋は昭和60年に完成しました。上から見るとX字の形をしているのが特徴ですが、そのユニークさは、上から見るからこそ感動できるのであり、渡っている限りにおいてはあまり認識されないのが残念です。


 
東郷隆『明治通り沿い奇譚』(平成5年)の「花見の人」では、この橋の上で起きた不思議な出来事が語られます。

 主人公の「私」は、桜咲く4月、隅田川の水上バス(吾妻橋が発着所。後に見ることになります。)の中で、侍の恰好をした男と知りあいます。男は、昨年の同じ時期、花見の場所取りのために隅田公園に行き、不思議なものを見たと言います。場所取りをしながら寝転がり、何回か寝返りをうちますが、ふと気付くと周りには誰一人としていなくなっています。土手の上に登っても誰もいません。
 その時、頭上の雲が割れ、日の光が差して、隅田川の水面が金色に美しく輝くのでした。


 『あっ、早く車に戻って、カメラを持ってこなくては』
 いや、笑っては困ります。この世のものとは思えない、美しいその光を見て、本当に私は公園の入口へ駆け出そうとしたんです。
 踵を返した時、桜橋が目の端に入りました。
 そこにようやく人影を発見しました。
 それがものすごく変なんです。
 大名行列、なんですよ。
 紺の揃いの着物を着た奴が、大勢、橋の上を歩いてきます。これにはもう開いた口が塞がりませんでした。
 『下にい、下に』
 という有名な文句を唱えながら、行列は土手の方にやって来るんです。


 この行列は、「瞬間の中に紛れ入って暮らす」ひとたちのものでした。男はこの後、行列に見つかり、「家臣として認められ」ることになってしまいます。しばらくして迎えにくると言われて男は現実世界に戻りましたが、翌年、その迎えが夢に現れます。侍の恰好をしたのも、その行列に合わせたものだったのでした。
 
さて、桜橋は横目で見るだけにし、先を急ぎます。その先右手にあるのが、三囲神社です。

三囲(みめぐり)神社
 隅田川七福神めぐりの南の出発点です。大黒天・恵比須を祀っています。王子稲荷に続く、東京第2の稲荷です。南北朝の時代、近江三井寺の僧・源慶がこのあたりを通った時、荒れ果てた社を見つけました。村人からこの社が弘法大師の建立であると聞いた彼は、すぐに再建にとりかかります。すると土の中から上記の像を見いだしました。村人がこのご神体を拝んでいると、白狐がどこからかふいに現れ、神像のまわりを3度廻って、どこかへ消えたといいます。だから三囲。

 社殿の左側に大きな四角い石があり、「丸に越」つまり三越マークが彫られています。この神社は三井・三越(越後屋呉服店)に関係が深いのです。三越の鬼門に当たる北東を封じる神を探していたところ、ここがありました。「三囲(みめぐり)」は他の読み方をすると「みつい」、つまり「三井」に通じます。その当時、この地はまた荒れた状態だったそうですが、縁を感じてこの社を改修し、それ以来スポンサーとなっています。境内にある石の三越マークは、この関係をよく示しています。なお、この石は元々越後屋にあったもので、「銅壺」(どうこ…金属製の湯沸かし器)を置いた台だそうです。上部にお湯を流す溝が切ってあるのが分かります。

 社殿は震災・戦災を奇跡的に逃れ、安政の時代の雰囲気を今に伝えています。境内に入ってまず驚くのは、句碑の多さでしょう。まさに林立という言葉がふさわしいです。中には有名なものもあり、拝殿右横にある
宝井其角の句碑は最も有名なものでしょう。
 宝井其角は、江戸時代の俳人・松尾芭蕉の弟子で、蕉門十哲にも数えられた人物。句は、

  ゆふだちや 田をみめぐりの 神ならば

で、これは雨乞いの句です。元禄6(1693)年6月のこと。たまたま通りかかった其角が、雨乞いをしている村人に代わってこの句を詠んだところ、一天にわかにかき曇り、どっとばかりに雨が降ってきたといいます。
各句の最初の文字をとってみると「ゆ・た・か」(豊か)になっているところもミソ。
 境内裏にある小さな一つの句碑には

  夢に見れば 死もなつかしや 冬木立


と刻まれています。これはこの地小梅で生まれた薄幸の俳人・
富田木歩の句です。

 富田木歩(本名一)は、明治30年に生まれました。2歳の時の高熱により両足がマヒしてしまいます。小学校にも通えず、「いろはがるた」や「軍人めんこ」を見て、字を学びます。実家は鰻の蒲焼き屋を営んでいましたが、経営が不振に陥り、姉たちは貧しさから芸妓となりました。妹や弟もいましたが、共に結核で亡くなっています。
 大正3・4年ごろから、「ホトトギス」に句を投稿し始め、6年、新井清風の「茜」同人となります。このころから「木歩」という号を用い、その才能を開花させはじめ、俳壇の石川啄木とも呼ばれて、将来を嘱望されましたが、これからという時に、大正13年の関東大震災で26歳の不遇な生涯を閉じました。

 なお、境内には非常に珍しい三角鳥居(三つ鳥居)があります。京都太秦の「蚕の社」のものと同じ形です。

 
物集高音『大東京三十五区 冥都七事件』は、面白い設定で読者を楽しませてくれるミステリーで、この東京探見にも少なからず登場してます。明治の時代の新聞に載った奇っ怪な事件を、昭和初年の早稲田の学生・阿閉万(あとじよろず)が大家である老人・玄翁先生の知恵を借りて解決していくという筋立てで、最後の最後に大きなどんでん返しが用意されているのが心憎い。その中にこの三囲神社のすぐちかくを舞台として怪事件が起こる「花ノ堤ノ迷途ニテ」という章がありました。

 事件が起こったのは明治34年の4月。桜花満開の時でした。向島の桜は有名です。この時も大変な人出でした。実に多くの、そして実に様々な人が墨堤に集まってきていたのですが、その人出をあてこんだ出し物も当然ながらありました。ここ三囲神社の前には「迷途」ができていました。迷途とは迷路のことです。
 事件はこの迷路の中で起きます。中に入ったはずの花魁(おいらん)二人が忽然と消えてしまったのでした。

 
さて、この二人はどこに行ってしまったというのでしょう。首をひねる阿閉万くんと同様、我々は玄翁先生の謎解きを待つしかありませんね。

小梅
 その先右手に区立小梅小学校があります。現在の地名は向島ですが、校名には昔の地名が残っています。小説家の堀辰雄や佐多稲子はこの学校に通っていました。

 さて、小梅を舞台にしたと思われる作品として、
江戸川乱歩『蟲』(昭和4年)が思い出されます。
 今や誰でも知る言葉となったstalkerですが、この小説の主人公・柾木愛造は、まさにそれでした。

 病的に厭人癖の強い彼は、幼なじみの唯一の友人池内光太郎に、やはり幼なじみで今は人気女優の木下芙蓉を紹介されたことから心乱されるようになります。彼はやがて、池内・木下の二人を尾行、その情事を窃視するうちに、木下芙蓉に対する恋慕の情が一層増してきます。やがて、あることがきっかけとなり、柾木愛造は木下芙蓉を殺害することに…。

 柾木愛造が、木下芙蓉の死体を運びこんだ自宅は、小梅にありました。

 その(中略)家というのは、向島の吾妻橋から少し上流のKという町にあった。そこは近くに安待合や貧民窟がかたまっていて、河一つ越せば浅草公園という盛り場をひかえているにもかかわらず、思いもかけぬところに、広い草原があったり、ひょっこり釣堀のこわれかかった小屋が立っていたりする、妙に混雑と閑静とを混ぜ合わせたような区域であった…

 このKという町は、場所からいっても小梅を想定しているのにまちがいなさそうです。当時の町の様子もうかがえますね。
 なお、この小説は、気味悪さ・生理的不快にあふれた作品であり、独特な読後感をのこすため、万人向けではありません。(ですが、筒井康隆・高木彬光など、この作品に賛辞を送る者もとても多いのです。)特にストーリーの半ば、犯人の柾木が殺した芙蓉の美しい死体を前に、その腐敗を懼れる場面など。

 彼はもはや芙蓉のなきがらと別れるに忍びなかった。彼女なしに生きて行くことは考えられなかった。この土蔵の厚い壁の中の別世界で、彼女のむくろと二人ぼっちで、いつまでも、不可思議な恋にひたっていたかった。そうするほかにはなんの思案も浮かばなかった。「永久に…」と彼は何心なく考えた。だが、「永久」という言葉に含まれた、ある身の毛もよだつ意味に思ひ当たった時、彼は余りの怖さに、ピョコンと立ち上がって、いきなり部屋の中を、忙しそうに歩きはじめた。一刻も猶予のならぬことだった。だがどんなに急いでも、あわてても、彼には(恐らく神様にだつて)どうすることもできないことだった。
 「虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫」
 彼の白い脳髄の襞を、無数の群虫が、ウジヤウジヤと這い回った。あらゆるものを啖ひつくす、それらの微生物の、ムチムチという咀嚼の音が、耳鳴りのように鳴り渡った。


これだけでもかなり強烈ですが、発表当時は旧字体「蟲」。さぞかし、不気味な雰囲気が漂ったことでしょう。

言問橋と伊勢物語そして東京大空襲
 小梅小学校をあとにすると大きな通りを横切ります。これは言問通りと言います。右側に見える道の盛り上がりは橋。言問橋です。名の「言問」というのは、古く平安時代の作品「伊勢物語」(第9段)に起源をもっています。

 ある男(在原業平に比定される)が、自分自身をいやになり、京都を離れ、東国に住むにふさわしい国を求めて下ります。長い旅の末、隅田川に至りますが、日も暮れかかり、京に残した自分の愛する人のことを思って、気も晴れません。

 以下は原文で味わってもらいましょう。


 さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食 ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥。」 と言ふを聞きて、
  名にし負はばいざ言問はむ都鳥
     わが思ふ人はありやなしやと
 とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。


「名にし負はば」とは、「そういう(都という)名を持っているならば」という意味であり、この和歌の中の「言問」という部分が橋の名につけられたのです。なお、この橋の南東、少し離れたところには「業平橋」という名の橋があり、東武の駅名にもなっています。(業平橋の下に流れていた横川は埋め立てられ、橋だけが辛うじて残っているという状態ですが。)

 この言問橋は、このような雅やかな話ばかりに関係しているわけではありません
。昭和20年3月10日の東京大空襲で、数多くの死者を出したところでもあるのです。そのことについては多くの資料に書かれていますが、ここでは、森真沙子の小説『東京怪奇地図』(平成9年)の中から記述を拾ってみることにします。

 その上流にかかる言問橋は、いささか痛ましい歴史があるので、彼は一度も歩いたことがなかった。その橋は東京大空襲でナパーム弾が炸裂し、数千人の焼死者が出たため、『昭和の地獄橋』と呼ばれているのだ。(「水妖譚」)

 業火に追われ、向こう岸に行けば助かる、と思った人々が両岸からこの橋に殺到し、身動き取れなくなった人々がこの橋の上で黒こげになりました。その後、1992年になってようやく補修を行い、なんとか悲惨な傷跡を消すことができたようです。 今、橋の東詰、台東区がわの隅田公園内に、改修前の言問橋の欄干の一部が保存されています。忘れてはいけない過ちを現在に伝える貴重なものです。

言問橋と御手洗潔
 鮎川哲也ばかりが孤軍奮闘し、後輩がなかなか出てこなかった日本本格ミステリー界に新風を吹き込んだのが
島田荘司でした。謎解き部分が袋とじになっていた『占星術殺人事件』(昭和56年)において、衝撃のデビューを果たした名探偵・御手洗潔。彼はその後、数々の難事件を解決していきますが、事件に関連する場所が具体的に記されていることが多く、われわれにはありがたい。で、その一つに『御手洗潔の挨拶』(平成2年)があります。この中の「ギリシャの犬」は、今回歩くこのコースに重なる場所がとても多いのです。

 御手洗潔のもとに目の悪いご婦人・青葉淑子が相談に来ます。彼女は浅草に住んでいる(正確には「台東区駒形三丁目」だそうです)のですが、彼女の家の隣にあったタコ焼き屋さんの店が、その主人も知らないうちにそっくり消えてしまったというのです。その後、子供が誘拐されるという事件が続きます。この子供は淑子のお兄さん・照孝の子供でした。照孝はギリシャに渡って成功した富豪ですが、その知らせを聞いて帰国します。犯人から要求が来ました。金額は一億円。受け渡し場所として犯人が指定したのは隅田川でした。犯人はどこにいるのでしょう、そして、どうやって身代金を受け取るつもりなのでしょうか、御手洗潔の脳細胞が回転します。
 彼はこの物語の語り手でもある友人石岡に、
まずあることを依頼します。それは「言問橋のたもとにある『マリーナ』という水上レストランの、ガラス張りのコーナーで必ずお茶を飲んでおくこと」でした。石岡は真意がわからず、首を傾げながらもその店を探しに行きます。

 マリーナという店はすぐに見つかった。浅草側から言問橋を渡り、渡り切った右側にある。
 言問橋のたもと、浅草側でタクシーを降り、霧雨の中、橋の下流側の歩道を歩いていくと、橋の上からすぐにそれと解る。川面にせり出して作られている喫茶店など
、その周辺見渡す限りこの店が一軒だけだからである。

 この謎めいた依頼が事件解決の大きな鍵になっているのはいうまでもありません。それは読んでもらってのお楽しみとして、まず我々は言問橋に行き、そのたもとに「川面にせり出して作られている」喫茶店が現実にあるのかを確かめてみることにしましょうね。
 あ、それからもう一つ、「ギリシャの犬」には、暗号めいた一枚のメモが出てきます。犯人グループが落としていったものと思われます。この散歩で見た光景をしっかり覚えている人には、とっても嬉しくなるような暗号ですよ。


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