下総国府 


 「国府台」という地名が示すとおり、かつてこの台地上には下総の国府があった。しかし、その場所は不明であった。ところが、1995年からの和洋女子大キャンパスの発掘調査で重要な発見が相次いでいる。

 645年の大化の改新以降、中央集権的な律令国家の建設が推進され、地方行政においてはこれまで地方の豪族を長とする国造・県主による支配から、中央から派遣された国司による統治がはじまった。この政の中心が国府であり、全国60箇所以上に設置された。しかし、ほぼ完全な形で発掘された例は周防などわずかである。

下総の場合、

  1. 国府台という地名。古くは「鴻ノ台」などと表記され武蔵へ遠征するヤマトタケルが江戸川を渡るときに浅瀬を教えたコウノトリの伝説にちなむとするものがあるが、国府は古代関東方言は「コウ」と発音されたようで、国府があった台地と素直に解釈するのが妥当であろう。(小田原の国府津もコウヅと読む。)
  2. 国府に隣接して建立される「総社」の跡が現スポーツセンター付近に残されていること。(総社とは6つの神を合祀した六所神社のことであり、国府台に陸軍が進駐してきたとき須和田に移転された。)
  3. 国府と同時に建立された国分寺が隣接する台地にあること。

などの理由で国府台の一角を占めることは間違えないとされてきたが、特定の場所はわからなかった。なにより国府は平城京や平安京を模した条里制であり、その中央もしくは北側に役所である国衙が設置されたがそれらを示す発掘はこれまで見つかっていなかった。 

ところが1995年からはじまった和洋女子大キャンパスの改修にともなう発掘で、和洋女子大の研究チームは国衙の周囲の溝と推定される跡が発掘されたことを発表した。

市川=松戸を結ぶバス通り。その西側、和洋女子大の敷地に赤と黄色の線で現されたのが発掘された遺溝である。国衙は何回かその規模を変えているようである。特に注目すべきは赤いコーナーの部分であり、今後、発掘が進めば四角形の国衙の領域があきらかになるであろう。推測の域は出ないが国衙の役所跡は現在の野球場周辺ということになるだろうか。

出典;『東国の国府 in WAYO』『下総国府台V』

かつては交通の要衝として多くの人々が行き交い、「手児奈伝説」も都へ伝えられた。その後、律令国家の衰えとともに国府は荒廃していく。平将門はここを攻め落とし、石橋山の合戦で破れた源頼朝はここで軍勢を整え再起を図った。しかし、なぜ豪族の存在を意味する古墳群がありながら国造は記録になく、国府が設置されたのかは謎として残る。